フェデリコ・フェデリチのらくがきちょう

いくら落書にはげんでみたところで、余白を埋めつくしたり出来っこない。──安部公房『箱男』

2026年の春アニメについて

こんばんは。フェデリコ・フェデリチです。

 

2026年の春アニメの感想を書いていきます。

順番はタイトルの50音順です。

 

 

「霧尾ファンクラブ」

「君の笑顔を取り戻したい」って言ってショートコントするアニメがあるかいな!
ストーリーだけで言えば、人と人が出会って、過去のトラウマを乗り越えていくという定番的なものなんだけど、そこで「笑い」が重要な作用を担っている。
ストーリーだけでいうと重苦しいような内容なんだけど「オチ」がついたり、「笑い」がキャラクターの関係や生き方を変えたりする。
ともすればストーリーと「笑い」という要素がちぐはぐになってスベリってもおかしくないところを、このアニメでは上手くいっている。それがすごい。
これは本筋から外れるんだけど、「オタク」を自称するキャラクターや人間が苦手なので、苦手だな~と思いながら見ていた。

 

「クジマ歌えば家ほろろ」

異質な客人との共存をするアニメ。アニメならありかとギリギリ思わせるマスコットキャラクターみたいな生き物が主役で、アニメを通してずっとこのクジマという強烈なキャラクターに困惑させられるアニメだった(周りのキャラクターたちも困惑していて、つまりキャラクターたちと一体になれるアニメだ)。
クジマは人間でなく鳥なのだけど、「飼う」のではなく「居候」として鴻田家にお世話になっているというスタンスなのが良い。クジマは客人なのだ。
そして兄の英が良いキャラクターだった。クジマがはしゃいでいるだけのアニメでもいいちゃいいんですが、兄の英がいるおかげで起伏のあるストーリーになっていました。あと兄の英が第二外国語でロシア語を履修していたら面白いなと思ったら本当にそうで、ちょっと感動さえした。
それと音楽も良かった。奇妙奇天烈なアニメになりそうなところを踏みとどまらせて、物語に目を向けさせてくれていたのは音楽だと思う。


「春夏秋冬代行者 春の舞」

前半ずっと春の代行者誘拐事件のトラウマを三者の視点で繰り返してて凄かった。誰にとっても悲劇的な事件であっただけに、視点によって見え方が違うということもあまりなく、キャラクターの回想に付き合わされているという感じがした。
前半の印象が強かったせいか、後半で秋の代行者が誘拐されたときも「また誘拐?」と思ったし、誘拐犯が判明したときも「また同じ組織?」と思った。

 

代行者の誘拐をする組織のリーダーは、この作品における「敵」なんですけど、「敵」の役を果たしているのかちょっと分からなかった。「敵」というのは、単にバトルシーンを作るためのものではなくて、ストーリーを作る作品における核であるべきで、そうあってほしい。
このアニメでは、代行者と護衛官それぞれに立場や生い立ちから来る生きづらさというのがあって、「敵」である組織のリーダーにもトラウマがある。みんな何かを克服しようと必死にもがきながら生きている。
そして、それらがぶつかり合ってどうなったか。語り合う場面があったはずなのに言葉を飲み込んでどうにもならなかった。結果ただ勝ち負けが決着しただけになった。それはなんだか寂しい。(原作や続編では何かあるのかもしれないが、このアニメに限ってはそうだった)
分かり合えなさに歯嚙みして、分かり合えることに涙する、そんなアニメだった。


「NEEDY GIRL OVERDOSE」

非凡に見せたがっている凡人たちの話。そしてアニメも非凡に見せたがっている凡作。
例えば、脚本なんかも手堅くて、最初にキャラクターたちの魅力や活躍をアピールして、次に各キャラクターの掘り下げ、トラブルが起きたり対決したりして、最後はそれぞれの新しい生き方を見つける、という構成。悪くはないんですがありきたりではある。
表現の面でも、部分的に実写映像を取り入れるとか何かの引用を散りばめるとかも、正直「やってるだけ」感があった。というか実写映像に関しては、「勇者の肋骨で」があまりに無法者すぎたので「ニディガ」が相対的に微妙になってしまったのは仕方なくもある。
「勇者の肋骨で」の多種多様な映像は、作品の内容に合わせた演出としてマッチしていたんだけど、「ニディガ」は奇抜に見せるための奇抜でしかなかった。
最後のマルチエンディングも、逃げの姿勢を取っただけにしか見えなかった。明るい未来なんて白々しいし悲惨な最期も程度の低い露悪だ。その両方を避けた結果、一つのエンディングを提示できなかったのだ(ある意味正直といえる)。
そして、キャラクター、作品がともに凡庸というのは、キャラクターと作品が一致しているというより、実際に一生懸命に変だと思われようとしたものの既存の枠組みから抜けられなかったという、お粗末なアニメだと思う。
すでに言い尽くされた「インターネットが辛い」を改めて言うことにどんな意義が見出されるのだろうかという期待はものの見事に打ち砕かれた。


「淡島百景」

このアニメは異様だね。このような作品がアニメとして描かれたことに感動すらしている。
このアニメの良さは、なんというか、正直さにあると思う。例えば、伊吹桂子と岡部絵美の名前で代表されるような、いじめの加害者と被害者、その共犯や傍観者の問題が扱われるんだけど、そこで加害者を悪魔化することもなければ、無罪にもしないという、微妙な立場が保たれていた。
単なるエンタメとして面白くしたいなら、もっと作品の立場をはっきりとさせてそれに合わせたストーリーやシナリオにすれば良いんだけど、それをしない。エンタメ重視に傾かずテーマに真面目に描こうとする態度を僕は正直と言いたい。
それでいて 闇の部分だけでなく、光の部分も描いていた。これもやはり、芸能の世界を正直に描こうという態度なんだと思う。
というかこのアニメは基本的に明るい。油彩画的な重厚さではなく水彩画的な透明感だ。忘れてはならないのは、なによりまず淡島歌劇は人に感動を与えるものだということ。その世界に入ってくる人も夢や希望を抱いてやってくるということ。それが第一。
時として裏側には人目を憚るような何かがある。もちろんあるんだけど、このアニメはそれに立ち向かった。田畑若菜が書いたのは暴露本ではなく、知られざるものを知ってもらって考えてもらって良い方向に変わっていくための希望の書だった。
本がどう受け止められるのかなんてわからない。結果良くなるのかもしれないし、悪くなるのかもしれない。作中でも何かを壊してしまうのではないかと危惧していた。それでも本を出した。希望を選んだのだ。このアニメは、希望のアニメなのだ。


『女神「異世界転生何になりたいですか」 俺「勇者の肋骨で」』

このアニメも異様じゃな! 毎話作画が変わるどころか、AパートとBパートで外注しているアニメ制作グループが違うという実験というか暴挙というか。でもそれは単に気を衒ってのことではなく、このアニメのコンセプトを最大限に表現した、あるいは活かした結果のこと。
主人公が好き勝手するせいで転生先がめちゃくちゃになるという話なのだから、アニメのほうもあまりお行儀良くしちゃいられない。転生するごとに、クレイアニメや紙芝居、実写映像もあるというお祭り感。
それでいて世界全体、マルチバースを救うというストーリーがあるのだから、ただものじゃない。「霧尾ファンクラブ」でもそうだったけど、「笑い」が目の前の人を、ときに世界を救うということもあるんだという笑いの可能性を信じた作品だ。


「勇者のクズ」

個人的に今期で一番面白かったアニメ。
ストーリーもキャラクターも良かったんですが、やっぱりこのアニメの魅力は、雰囲気というかノリですね。
背景設定は言ってしまえば、ヤク中とヤク中予備軍の連中が権力抗争を繰り返している世界で、今期のアニメの中で最も悲惨。魔王vs.勇者と言いつつ、魔王の眷属から勇者になったり、勇者から魔王や眷属になったりが当たり前の世界。何なら主人公がそうですしね。
この最悪な世界と美少女萌えアニメとが上手く両立しているというのがすごい。絵柄や演出の為せる業。またこの対立は、作中では死神ヤシロと城ヶ峰亜希のケンカという形で表現されていた。漠然と感じられる違和感よりも、対象化されて問題にされたほうが受け入れられやすいのでしょうね。
そしてヤシロと城ヶ峰の対立は、言わば現実主義と理想主義の対立であり、このアニメの裏の、しかしメインのテーマである。正義の反対はもう別の正義どころか、悪の反対はもう別の悪というような世界で、勇者とは何かと問う。
一話一話が面白くて、全体でも良いストーリーだった作品でした。
あと嵐の柩卿。かつて悪しき野望を抱いた女にしか出せない哀愁!


「リィンカーネーションの花弁」

ハッキリ言ってクソアニメ。ストーリー? 多分いいんじゃない? 多分というのは、最終回が中途半端なところで終わったのみならず、全編通して描写とかエピソードが滅茶苦茶でストーリーどころではなかったから。
原作を知らないから勝手なことしか言えないけど、例えば「自分だけの才能」を切望していたはずの主人公が、他人の才能を盗む才能に目覚めるという設定、かなり秀逸なものだと思っている。つまり、主人公が求めたものと実際に得たものの間に乖離があるわけです。その点について充分に扱えていたとは思えない。
加えて、才能を手に入れることで歴史上の人物に近づけば近づくほど、元の自分を失ってしまうという葛藤もあった。これは作品の根幹でしょうに。チラッと言及されただけで、消化不良の感が否めない。
ストーリーを軽視した構成は、結果的にバトルシーンもポッと出のキャラ同士の技のぶつけ合いになってしまってつまらなかった。
最終回まで見れば駆け足だった理由に納得できるのではないかという期待も裏切られ、最悪でした。もっと良いアニメ化の仕方があったはずです。アニメーション自体は、作品のダークな部分、ダークでない部分両方の魅力を引き出せていただけに残念でなりません。

 

以上です。

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2026年の冬アニメについて

こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。
2026年冬アニメの感想を書いていこうと思います。


「エリスの聖杯」

平凡な子爵令嬢コンスタンス・グレイルが、十年前に処刑された稀代の悪女スカーレット・カスティエルに取り憑かれて、その復讐に協力する物語。

 

スカーレット・カスティエルの処刑という事件があって、そこには謎がある。実に惹きつける始め方です。
また物語の終盤には、「スカーレット・カスティエルは処刑された。その真相は?」という知ることに関する問いから、「スカーレット・カスティエルは処刑された。ではコンスタンス・グレイルは?」というアクチュアルな出来事に関する問いへと変化するのも、とても良いものでした。
事件の真相が明るみになった。というだけでは終わり方として面白くないですからね。戦争が始まろうとしている。処刑がなされようとしている。どうなる。どうなった。という方がずっと面白い。
さらに、単に陰謀があって、物語が進んでというのでもなく、コンスタンス・グレイルとスカーレット・カスティエルが互いに影響しあっているのも面白い。
コニーは当初、何事にも怯える少女でしたが、人を助けるために率先して動いて他人を巻き込んでいくようになりました。スカーレットもただ自分の復讐のためにではなく、コニーを助けるために奮闘しました。つまりはバディ物なのです。
正直、バディ物ってあまり好き好んでみてきたわけでないのですが、その面白さがわかったような気がします。
今回で十分完結した内容のものでしたが、続編もあるようなので、二期に期待したいです。

 

 

「東島丹三郎は仮面ライダーになりたい」

何なんだこの作品は。
仮面ライダーが大好きな主人公、東島丹三郎が、いい加減仮面ライダーへの憧れを捨てようとしていたところに、ショッカーの格好をした強盗が現れる。それを見て仮面ライダーのお面をつけて戦うところから話が始まる。
その後本物のショッカーや怪人も出てくるのだが、主人公たちはあくまで「強いだけのお面をつけた変人」。

 

この作品は本当にすごくて、たとえば頬を赤らめる演出だとか、サブタイトルになっているセリフが字幕で画面を埋めるのとか、愛の力でショッカーの洗脳から覚めるだとか、めちゃくちゃダサいんですけど、そういう冷笑をガン無視して自分の好きなものを貫くというところにこの作品の本質があるのでしょう。
いわゆるファンだとかオタクだとか呼ばれる人の生き方を描いた作品ですが、そこには生半可さが一切ない。仮面ライダーになるために過酷な修業・訓練をするというフィジカル面もそうだし、事あるごとに仮面ライダーの「あのシーン」を引用して語り合う、なんてこともする。
そしてこれほどにまで仮面ライダーへの熱意で溢れる作品であるにもかかわらず、まったく仮面ライダーファンではない僕も楽しんで観ることができたということが、この作品の良さなのでしょう。

 

 

「透明男と人間女〜そのうち夫婦になるふたり〜」

透明人間の透乃眼あきらと目の見えない夜香しずかの恋愛を描いた話。出会ってから恋をして同棲するまでが描かれる。

 

あまり恋愛が主軸の作品は見ないのですが、面白く見ていました。探偵事務所が舞台ということもあり、話の拡がりが大きいのもありましたが、人間を含む様々な種族が登場して、独特な面白さのある作品でした。
たとえば毛並みに柄のある獣人が、服の着こなしで悩むというのは、見たことがありません。そしてその服の悩み、毛並みの悩みが目の見えない夜香しずかにとっては考えられないことで、まったく響かないというのも、この作品の面白いところです。
そのおかげで解決するわけではないし、なんなら別の仕方で解決を見るのですが、自分の悩みとは無関係なところにいる誰かが傍にいるということは、それだけで意義深いことです。
この異なるもの同士の出会いというのは、この作品の恋愛という部分でも見られることです。透明人間である透乃眼あきらにとって、人から見られないということは恐怖でした。見えないということで、忘れられ、疑われ、怖がられる。
そんな彼にとって夜香しずかは、見る以外の仕方で、理解してくれて、信頼してくれて、傍にいてくれる存在なわけです。
ルーツの異なる者同士で、理解できないことがあって苦しんだり、逆に悩みが相対化されたりというのは普遍的なテーマです。そしてこのようなファンタジーでそのような部分を扱った作品は珍しくとても新鮮な感じで見ていました。

 

 

「勇者刑に処す 懲罰勇者9004隊刑務記録」

勇者という罪人が、世界の脅威魔王と戦う話。勇者ザイロ・フォルバーツが対魔王兵器である女神テオリッタと出会いその騎士になってから、パトーシェ・キヴィアがおじ殺しの罪で勇者刑に処されるまでが一期の内容。

 

古典的なファンタジーの用語が使われますが、そのじつ勇者は徴兵された罪人で女神は兵器です。それらがその名であるのは、まさに魔王である魔王によってでしょう。しかし魔王は魔王で、物語の最後に現れる単一のものではありません。
このように勇者、魔王という単語を使いながらも古典的なファンタジーの用法と異なっている、特に勇者は尊敬されず、魔王は複数存在するというのは、原作者が同じである「勇者のクズ」でも当てはまります(こちらはまだ続くようなので今回は取り上げませんが)。
この作品の主軸は、勇者vs.魔王ではなく、勇者と魔王を取り巻く人物たちの間での政治的駆け引きです。特に共生派と呼ばれる、魔王と人類の「共生」を掲げる一派が存在します。といっても魔王に取り入って人類を支配しようという企みのことなのですが。
自分と自分の近しい人を守ろうとする現実的な共生派と自己犠牲をも厭わず世界を救おうとする理想主義の間の対立。これが本作のテーマでしょう。
第一話を見たときはあまりにも詰め込みすぎていて、うんざりしたものですが、通して見ると案外良いと思えた作品でした。

 

 

「勇者パーティを追い出された器用貧乏」

タイトル通りの作品ですね。追放されたあと黒竜を単独で討伐するなどの活躍をして、別のギルドに迎え入れられ、そこでも活躍をし、もう一度黒竜を討伐します。
作品を見ていない方には驚かれるかもしれませんが、作中で二度(言及されているだけのものを含めれば三度)黒竜を討伐します。

 

自分の好みから外れるだろうと予想はしていましたが、知るために見たアニメです。まあ予想通りでしたね。
でもこのようなアニメを見てこそ、自分にとって好きなアニメとは何か、良いアニメとは何かという問題を考えることができるようになるのですよね。
このアニメは僕にとって何が問題であったか。それは「敵」の存在が足らなかったということでしょう。ここで言う「敵」とは「悪」とは異なります。主人公が「悪」ならば「敵」は「善」ということもありうるでしょう。そもそも「善」対「悪」という構図でないかもしれません。
ときに単なる競争相手ということもあれば、社会に蔓延る差別や偏見ということもある。自分自身の弱さという観念的なものでもありうる。
それらはつまり、物語全体を通して主人公が取り組まなければならない課題のことです。その課題を通して、主人公や周りの人物、世界はどのように変容していくのか。それが物語を作るのです。
もちろん、その課題が明確でない場合もあれば存在しない場合もあるでしょう。しかしそれは日常を描いたような作品に限られます。
この作品には日常も敵もありません。敵という概念の欠落は、黒竜を何度も討伐したことに表れています。
黒竜の討伐について確認しておきましょう。まず主人公は、追い出される前の勇者パーティーとともに黒竜を討伐しています。これが言及されるだけで描写のないものです。
次に訳あって唐突に出現した黒竜を単独で討伐します。主人公が勇者パーティーから追い出された後のことです。これは作中で意味があります。勇者パーティーの強さの核心は役立たずと思われていた主人公にある、ということを示すことです。
そして、主人公が勇者パーティーとは別のギルドに迎え入れられた後にもう一度討伐します。これには何か意味があったのでしょうか。ギルドの仲間たちと協力して討伐していたのなら、多少なりとも意味があったでしょう。しかしアニメの描写の限りでは、そこが強調されていたように思えません。
それどころか、同時に別のところでピンチになっていた主人公の教え子を守るために、黒竜をさっさと片付けて助けに駆けつけるのです。なるほど主人公はピンチを切り抜けました。しかしだから何だというのでしょう。
この作品に限った話ではありませんが、「階層」や「フロアボス」という概念は基本的に、登場人物の「格」を示すだけのもので敵ではありません。主人公が周りの人物から称賛されるためのもの、トロフィーに過ぎないのです。
強い敵を倒して、仲間や教え子を守った。主人公はすごい。それだけのことです。
最終回でようやく、陰謀を企む悪の組織の存在が仄めかされましたが、大部分では特に敵が現れることもないぬるりとしたものでした。
生涯をかけて追い求める目標もなければ愛すべき日常もない。それでも次々と対処しなければならない何かが差し迫ってくる。これはこれで現代のリアリティーなのかもしれません。適当なことを言いたくなったところでやめておきましょう。

 

 

それではまた。

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言葉とイメージについて――政治のために

こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。

 

第51回衆議院議員総選挙が終わりました。

 

今回の選挙結果を受けて、それぞれの立場、個人に思うところがあるでしょう。特にリベラルあるいは左派と自称するあるいは他称される人たちは、今回の敗因分析や以降の課題について考えているはずです。

 

僕自身はどこかの党や立場に属するような活動をしていたわけではないので、「敗因分析」という言い方こそしませんが、なぜこのような選挙結果になったのかについて考えたことを書いておきたいと思います。

 

今回の選挙についての報道や意見を見て目に付いたのは、「イメージ」という言葉です。例えば、高市早苗についてはポジティブなイメージがあるとされ、高市批判を繰り返す野党にはネガティブなイメージがあるとされます。
ここで「イメージ」とは、何かを想像するときに心の中に現れる視覚的なものというより、それに伴う「評価」とでも言うべきものを含んだものです。つまり有権者は、高市早苗について良い評価を与え、野党には悪い評価を与えたのです。
左派、リベラルの期待するはずのところ、あるいは僕の期待するところでは、有権者はイメージではなく政策-言葉による投票をするべきです。日本という国、日本に住む人々の暮らしを維持するにせよ改革するにせよ、その政策は言葉によって表現され、有権者はその言葉を理解して判断して投票先を決定する。それが選挙であるはずでした。
ところが今回の選挙はそうではありませんでした。高市早苗が自ら解散しておきながら、涙を流して被害者のような振る舞いをする。このような歪んだ論理-言葉を批判する野党は、悪口を言うというイメージがつき、政策-言葉を何も語らない高市早苗には明るいイメージがつく。そしてイメージの良し悪しがそのまま選挙結果と相成った。言葉ではなくイメージによる選挙でした。

 

ではそのようなイメージを作るものは何でしょうか? それもやはり言葉でしょう。それはつまり、物語としての言葉です。
例えば、今回自民党に投票した有権者はこのようだったと考えてみましょう。YoutubeTiktokで動画を見る。するとそこでは、高市早苗に台湾有事について質問をする岡田という男がいる。彼は中国と繋がっており、高市早苗への質問は、中国が日本に侵略するための口実作りだった。他にも高市早苗に批判する人がいて云々。そのような動画を見て物語-言葉が出来上がる。高市早苗さんが悪意を持った人たちに追い詰められている。可哀想だ。助けてあげなきゃ。そうして自民党に投票する。
これもまた一つの物語-言葉です。自民党に投票した人のうち、これに当てはまる人はそれほど多くないかもしれません。しかし今の物語によって、自民党に投票した人のイメージが一つ出来上がったはずです。論理-言葉を大切にする人には理解できないかもしれませんが、イメージが出来上がってしまうと、人はそれを信じてしまう傾向があります。少なくともイメージがなく、論理-言葉による説明だけがある場合よりも遥かに信じやすいでしょう。
政策-言葉は、論理-言葉によるものです。政策が論理によっているとは、論理に基づいているということではありません。立場や人によっては、不可能と思える政策もあろうかと思いますが、そもそも不可能がどうか考えることができるのは、論理の領域に属しているからです。つまり僕がここで言いたいのは、政策が論理に基づいて立案されているということではなく、政策を問題にするとは、論理において問題にするということなのだというものです。
一方で、イメージについて考えるとは、論理において考えるということではありません。イメージが物語-言葉によって形成されるとしても、イメージそれ自身は論理の領域に属していないのです。これもまた論理を大切にする人には理解できないことでしょうが、論理によるのではイメージは覆らないのです。

 

では、左派、リベラルには何が必要なのでしょうか。YoutubeTiktokで政治系動画による収益を停止してはどうかという案があります。もちろんそれも重要でしょう。しかし短期的に実現可能なものではありませんし、長期的には新しいプラットフォームの登場ごとにイタチごっこに付き合わされでしょう。
であるならば、物語-言葉をやるべきでしょう。僕らは陰謀論の時代を生きています。だからといって左派やリベラルにとって都合のいいデマを言いふらそうということではありません。あくまで事実に基づきながらも物語を作る。人々に物語を提示してそこへの「参加」を呼びかける。
僕が今回の選挙で思い出していたのは、兵庫県知事選です。事実はどうであれ、斎藤知事が被害者であるという物語に参加した有権者が彼を助けるための投票行動をしたことが結果に繋がった選挙でした。物語はイメージを形成します。そして物語に触れた人はそれに参加したくなるものです。どのようにして、物語が参加を促すのか。それは分かりませんが、物語に参加する人は物語が形成するイメージによってその振る舞いがあらかじめ決定されていることは確かです。

 

僕はこの文章の中で○○-言葉という表現を繰り返してきました。それは、政策も論理も物語も言葉によって表現されるということを言いたかったからです。そしてイメージは、言葉によって表現されるものではないことを強調したかったからです。
物語はイメージを作り出す。イメージは言葉にとって余分なものでしょう。自らの支配下に治めることのできない、自らの産物。
これまで言葉を重視する人々はイメージを嫌い、イメージを与えない論理に終始してきました。しかし、政治における論理一辺倒の時代は終わりました。すでにイメージを産出する物語の時代です。
○○-言葉という書き方は、論理と物語が区別されながらも、どちらも言葉によって表現されたものであるという点で似ていることを言いたかったのです。
論理から物語への移行は容易くはないでしょう。しかし不可能なことでもないはずです。

 

人々の政治的な判断の基盤は、政策からイメージへと重心が移動しつつあります。
イメージは論理の外部にあり、論理による政治的な活動には限界が到来しつつあります。
それは言葉による活動が無意味になったのではなく、活動また論理から物語へとその重心を移動させることを期待されるようになったのです。

 

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記憶力がスカーレット・カスティエルほどではない人向けの『エリスの聖杯』人物メモ

こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。

 

さて2026年冬アニメ『エリスの聖杯』がスタートしました。

平凡な少女コンスタンス・グレイルが、地獄から舞い戻った稀代の悪女スカーレット・カスティエルに復讐の協力をするというストーリーのこのアニメですが、

どうやら紳士の方々からも人気なアニメのようです。

ところでこのアニメは、登場人物の数が多く、またミステリーの側面も持ち合わせているため、人物を記憶しておくことが大切になります。

この記事では、記憶力に問題のある方々のために登場人物を記録しておこうと思います。

 

ストーリー解説を行うわけではありませんが、ネタバレ配慮等はしておりませんので、アニメ視聴後の確認のためにご利用ください。

加えて原作については未読ですので間違い等があるかもしれませんことをご承知おきください。

 

第一話 小宮殿にて

コンスタンス・グレイル(愛称:コニー)

 

スカーレット・カスティエル(10年前に処刑され死亡)

 

エセル(グレイルの父)

 

ミレーヌ・リース(コニーの友人)

 

ケイト・ロレーヌ(コニーの友人)

 

ニール・ブロンソン(ブロンソン商会の御曹子)

 

パメラ・フランシス(ニールの恋人)

 

ブレンダ(パメラの友人)

 

時計回りに、ペラム士爵、名前不明、ウェイン・ヘイスティング、スタン子爵夫人、ブロア男爵令嬢

 

ドミニク・ハームズワース子爵(成金豚)

 

エマニュエル伯爵夫人(盗人が死ぬまで踊る地方の人)

 

セシリア子爵令嬢とエンリケ王太子

 

第二話 稀代の悪女と平凡な少女

コニーはオーラミュンデ公爵家の使いレティとモーリス孤児院のシスターになりすました

 

リリィ・オーラミュンデ(カスティエルの知人。2年前に死亡)

 

モーリス孤児院のシスター

 

ランドルフ・アルスター(リリィの夫、死神閣下)

 

モーリス孤児院の孤児たち、左の少年がジョージ、右の少年がトニー

 

エミリア・ゴードウィン(生前のカスティエルを知る)

 

アイシャ・ハクスリー(カスティエルからはスペンサーと呼ばれていた)

 

アイシャ・ハクスリーの「良い人」

 

テレサ・ジニングス

 

マーゴット・テューダー

 

キリキキリククと呟く女性

 

第三話 それぞれの答えと始まり

セシリアとエンリケ本人が登場。

 

ジョン・ドゥ伯爵(名無し、秘密の夜会の隠語)

 

スカーレット・カスティエルの腹違いの兄

 

コーネリア(かつてのファリス帝国の皇帝の子息の娘)

 

アリエノール(スカーレットの母。コーネリアの血を引くという話がある)

 

デボラ・ダルキアン(この度の夜会の主催)

 

ゲオルグ・ガイナ(憲兵。アルスター卿の同僚)

 

カイル(同上)

 

ダェグ・ガルス(「例の組織」。人身売買などの悪事を働く)

 

エルンスト・アデルバイド(国王。生前のスカーレットを知る)

 

第四話 口なき貴婦人たちの茶会

右からジャニーン、エステル、デボラ・ダルキアン(第三話登場)、カロリーナ

 

左:マクレーン公爵(エステルの夫)

 

アビゲイル・オブライエン(四大貴族の一人。口なし貴婦人の茶会にはスザンナ・ネビルの代理で出席)

 

アメリア・ホッブス(メイフラワー社の記者)

 

オルダス・クレイトン(同上)

 

キンバリー・スミス(すみれの会婦人部の人)

 

ケンダル・レヴァイン(ファリスの上級外交官)

 

ユリシーズ・ファリス(ファリスの第七殿下。目下行方不明)

 

バド(ソルディタ共和国の商人)

 

ジョアン殿下(エンリケの弟)と夫人と息子、娘

 

ウォルター・ロビンソン商会の人間(ウォルター・ロビンソンその人?)

 

謎の人物が馭者に入れ替わって登場

 

第五話 そして夜明けを告げる鳥が鳴く

アビゲイル・オブライエンは高級娼館フォールクヴァングのオーナーでありメイフラワー社の出資者の一人。オルダス・クレイトンはオブライエンの下で動いており、ルディと呼ばれている。

 

ミリアム(オブライエンの関係者)

 

レベッカ(同上)

 

キアラ・クラフトン(エミリア・ゴードウィンの夜会やジョン・ドゥ伯爵の夜会に登場)

 

ユリシーズ・ファリス(依然囚われの身)

 

サルバドル(ダェグ・ガルスのメンバー、バドと名乗っていた)

 

ショシャンナ(ダェグ・ガルスのメンバー)

 

ホセ(同上)

 

リュゼ子爵家(嫡子は幼くして亡くなっており、セシリアは妾の娘であるとか)

 

孤児院でのセシリア(孤児院時代の恋人シシーに会っているとか)

 

テレサ・ジニングス(薬物中毒で死亡)

 

第六話 女神の采配

ルチア・オブライエン(アビゲイルの姪。霊感がありスカーレットが視える)

 

ケビン・ジニングス(亡くなったテレサの夫。記者アメリアの情報源だったが現在は廃人に)

 

アドルファス・カスティエル(スカーレットの父だろう)

 

シャロン(アイシャの友人。彼女に「気付け薬」を教えた)

 

第七話 食虫花の宴

ルーファス・メイ(財務監督官。デボラ・ダルキアンと繋がっている)

 

ハクスリー邸の使用人たち

 

レディー・オードリー(高級娼館フォールクヴァングを取り仕切る。先代のオブライエンからの繋がり)

 

ローラ(フォールクヴァングで働く、ミリアムやレベッカの同僚)

 

カルヴァン・キャンベル(アビゲイルの裁判を担当する判事)

 

↑サンと↓エウラリア

 

第八話 リリィ・オーラミュンデ

リリィ、エンリケ、スカーレットは少年時代を同じくした

 

家庭教師に召使い

 

聖ニコラス病院(セシリアの慈善団体が運営。前の運営者はキャンベル伯爵)

 

サイモン・ダルキアン(デボラの夫。セシリアを病院へ仲介させた)

 

デュラン・ベレスフォード(憲兵局の総司令官)

 

二人はファリスのアレクサンドラ王女の使い

 

第九話 エリスの聖杯

現国王エルンストと、スカーレットの父アドルファスと、ランドルフの上官デュランは旧知の仲

 

アリエノール・シボラ(スカーレットの母)

 

シモン・アルスター(ランドルフの父。亡くなった)

 

ロドリック(ファリス第二殿下。引きこもり状態)

 

アレクサンドラ(ファリス第三殿下。塔に幽閉されており火刑の危機)

 

テオフィルス(ファリス第四殿下。戴冠間近)

 

エドモンド・パーク(ミレーヌ(画像左)の情報によれば、他殺体で発見された会計事務所の所長。聖ニコラス病院を受け持っていた)

 

ヤギのくるぶし亭の人間。地下の賭博場への案内もしている

 

第十話 未来のために

パメラに囁く老人

 

オブライエン邸の使用人

 

ジョアン殿下(名前は第四話であがっていた)

 

第十一話 運命にあらがう者たち

ルチアとユリシーズの見張り

 

テオフィルス(第九話登場)

 

ファリスの使用人(首元にはダェグ・ガルスの刻印)

 

セシリアの幼い頃とその親友

 

セス

 

シシィ

 

塔に囚われていることになっているアレクサンドラの身代わり

 

終わりに

復習用の記事なので、最終話となる第十二話分の更新はありません。

 

別の記事として2026年冬アニメの感想を書くつもりですので、そちらも読んでいただきたいです。

それでは。

 

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2025年の秋アニメについて

こんばんは。フェデリコ・フェデリチです。

2025年の秋アニメについて感想を書いておこうと思います。

 

「機械じかけのマリー」

ストーリーはラブコメ。ありきたりではありますが、それだけに演出やキャラクターの良さが伝わってくる作品でした。
何よりもまず、登場するキャラクターが良い。適度に味付けが濃いというか、出れば出るだけ面白い巧みなキャラ作りでした。やっぱりラブコメって主役の二人だけでは面白くならなくて、ロイやマリー2、ロイやメイナードといったレギュラーキャラに加えて、アーサーファンクラブとか生物部がいることでガヤガヤして面白くなるんですよね。
ストーリーも、ありきたりと言いましたが、アーサーとマリーが互いを想い合うようになるだけでなく、アーサーがマリーと出会うことで人間一般に対しても心が開かれていくという点はとても良かったですね。この変化って物語の中で殊更に強調されていなかったのですが、アーサーが記憶を失くすことでマリーと出会う以前の状態に戻り人間不信に陥るのを見てはじめて、アーサーがストーリー全体を通じて性格が柔らかくなってんだということに気づいて感動しましたね。それを描けていたのも、アーサーとマリー以外のキャラクターがいてくれたおかげだと思います。

 

「友達の妹が俺にだけウザい」

これはあんまり面白くなかったですね。
理由ははっきりしていて、ヒロイン同士の絡みが一切なかったからです。僕はこういうアニメを主人公よりもヒロインに興味を持って観ているのですが、その場合ヒロインと主人公の絡みよりもヒロイン同士の絡みの方が、2倍効率が良いんですよね。いもウザにはそれが(ほとんで)なくて残念でした。
こういうアニメって友達の妹と幼馴染が主人公を取り合って喧嘩するようなことが多いと思うんですが、このアニメではすぐに仲良くなったのも嬉しくなかったし、仲良くなったらなったで、二人の間で何かが起きるということもなく、ずっと主人公の大立ち回りを見ているだけでした。
もっとヒロイン同士のやり取りを観たかったなという感想です。

 

「永久のユウグレ」

この作品は、面白かったんですが、期待していたほどではなかったかなという印象でした。
いくつか原因があると思うんですが、一番はストーリー構成ですね。このアニメは複数のエピソードから成り立っているのですが、エピソードが終わってもその回が終わらずにそのまま新しいエピソードが始まるようになっています。つまりエピソードの切れ目とアニメの話数の切れ目が一致していません。
エピソードと同時にアニメが終わってくれないと、うまく余韻に浸るということができません。普通アニメ観ている時間よりも観ていない時間の方が長いわけですが、観ていない時間もアニメのことを考えているはずです。アニメを観ていないけどアニメのことを考えている時間、それがとても大切で、アニメが終わると同時にエピソードが終わると、エピソードについて振り返って考えるということが、自然と成り立ちます。
けれどもこのアニメではそうはならないのです。エピソードが終わると、それはそれとして、次の新しいエピソードが始まる。
最初僕は、アモルを救出した後すぐに次のエピソードが始まってビックリしたものです。アモル救出の直前の回では、アキラとユウグレがアモルを救出するかどうかで決裂します。この決裂は単なる喧嘩ではありません。出会って間もない、互いのことを何も知らない二人が、互いの価値観を巡って争うわけです。
次回どうなるかと思いきや、アキラが救出作戦を強行してお粗末な失敗を演じ、突然ユウグレがやってきて力で解決。各話の終わりに次回への「引き」を作りたかったのかなぐらいには思いますが、一話分の何かを(勝手ながら)期待していたこちらとしては肝心の見どころを省かれたようでガッカリしました。
ストーリーについて気になる点は他にもあります。例えば最終話でアモルとヨイヤミが合体する展開は、あまり良いものとは思えませんでした。二人の結婚ではなく三人のエルシーを望むアモルと、トワサへの想いとユウグレへの嫉妬に苦しむヨイヤミ。どちらもアニメを作り出すだけの面白さはあると思いますが、ごちゃ混ぜにしちゃったら何がなんだか。
ユウグレとヨイヤミが対決する場面はたくさんありましたし、決闘をする場面さえありました。ユウグレとヨイヤミの不和はそこで問題にすることができたはずです。対してアモルは、何度も想いをぶつけていました。戦闘に入らないと向き合うことができないんだとしたら、残念なことです。

ここまで酷評めいたことしか書いてませんが、全体としては高く評価しています。道中のエピソードはいずれもアキラたちの価値観に問いを与えるようなものでした。一方でそれは恋愛というテーマに限ったものが多かったのですが、それでも見飽きるということはありませんでした。
また微小な(つまりナノより小さいフェムト、あるいは一つ一つの影響は知覚できないほど些細であるがその累積によって多大な影響をもたらすような)情報技術によって歪められ狂暴化する(あるいはそのフリをする)人間たちは、SNSで何度も見てきたものです。その末路としての大いなる他者からの管理を望む社会はもはや間近でしょう。王真樹トワサがオーウェルを作り出すまでを描いても良かったところを、電算技術へのバックラッシュとしてのオーウェルを描いた点が実に面白い作品だと思います。

 

「矢野くんの普通の日々」

このアニメも良かったです。
いわゆるラブコメというジャンルのアニメですが、気持ちを伝えるか伝えるまいかの煩悶がいつまでも続くのではなく、付き合うことになった後の生活も描かれていて、とても良かったです。最終回のほうでも、矢野くんが、自身の暗い過去や今の友人たちに向き合うような展開になっており、日常を描いたラブコメに相応しい終わり方だなと思いました。
作画や演出も良くて、バトルシーンのあるアニメではないのでバンバン動くわけでないんですが、細かい動きや面白い演出があって画面を観ていて楽しかったです。
あと吉田清子役を演じた貫井柚佳さんの演技が印象的でした。裏声の演技が良くて、真面目でしっかり者なんだけど緊張すると気が早ってしまう、そんな性格をした吉田清子というキャラクターを魅力的に表現されていたと思います。これからも貫井さんが出演するアニメが観たいと思いました。

 

「羅小黒戦記」

今期で一番面白かったです。
作画も奇をてらったような感じでないのに特徴的で、アニメの雰囲気をうまく作り出していました。まったりとした場面でも激しいバトルシーンでも良く見えました。
ストーリーも、精霊というのはフィクションですが、共生や脱人間至上主義というのは普遍的なテーマです。物語の前半では、人間と精霊が異なる存在であることが強調されます。精霊は人間に正体を隠して生きなければならない。少なくともそれが上手いやり方なのだと。一方で物語の後半、特にゲームが登場してからは、人間と精霊の相互理解を目指していました。コミケという非日常に溶け込むことのできる精霊、ゲームを通じて精霊と同じ立場で遊ぶことのできる人間。
あと、ゲームについて。ゲームのシステムは相手を倒すほどレベルを上げられてレベルの高い者ほど相手を倒しやすくて(もっともほとんどのゲームがそうですが)、競争原理を体現したものでしょう。一方でプレイヤー側は、もちろんシステムに乗っかって楽しむ人もいますが、なかには動物としてゲーム世界を遊びまわったり集団で協力して交流を楽しんだりしています。そのような余剰は、現実において失われつつある部分で、そこまで描くのかと驚きました。
キャラクター同士が精霊と人間という垣根を越えて交流していく物語を、2025年に観ることができて嬉しかったです。

 

「私を喰べたい、ひとでなし」

社美胡さんに、太陽になってほしい。永遠に輝いていてほしい。

日本語の「無事」について

こんばんは。フェデリコ・フェデリチです。

突然ですが、広辞苑(第六版)を読んでみましょう。

 

ゆう-じ【有事】戦争や事変など、非常の事態が起こること。〈以下略〉

ぶ-じ【無事】①取り立てて言うほどの変わったことのないこと。㋐事変のないこと。危険・災害・大過などが起こらない状態。平穏。⇔有事。㋑つつがないこと。健康なこと。〈以下略〉

 

日本語の「無事」という言葉には、様々な意味・用法があります。日常会話では①の㋑で使われることが多いと思いますが、㋐のように「有事」の対義語であるような意味・用法もあります。
語の構成からしても、「事が有る」と「事が無い」という具合に対立していることは明らかですね。

一方で「平時」という言葉も広辞苑で調べてみましょう。

 

へい-じ【平時】①平常のとき。ふだん。②平和な時。戦争や事変のない時。「平時の訓練」⇔戦時。〈以下略〉

 

「戦時」の対義語であるようですね。

 

せん-じ【戦時】戦争の行われている時期。戦争中。「戦時色を強める」⇔平時。〈以下略〉

 

語の構成はどうでしょうか。「平」と「戦」という言葉は、「戦争と平和」という言い方があるように、対立して使われることがあり、平時⇔戦時もそのひとつのようです。

 

では、「有事」という言葉の対義語として「平時」という言葉を使うことは、日本語としてどのくらいの正当性があるでしょうか。
語の構成から見れば、有事⇔無事と平時⇔戦時の方が美しいのは、見た通りです。「有事」も「平時」も音でのみ把握する場合は「○○じ」という形であることには変わりありませんが、表記も考慮に入れるとちぐはぐの感があります。
意味の面では、いかがでしょうか。どちらも戦争や事変の有無を問題にしています。しかし、「有事」は「~~こと」のように状態を指しているのに対して、「平時」は「~~時」のように時期を指しています。
些細な違いと言えばその通りですが、差異があること(しかも対義語の対称性に寄与しない余計な差異)には変わりありません。

「有事」の対義語を考えるうえで、「平時」が「無事」よりも優先される理由はなさそうです。

 

ではまた。

「豚食の忌避は過去の集団食中毒のせいだ」という説明を「科学的」と称することについて

こんばんは。フェデリコ・フェデリチです。

 

人はときに、「ある民族で豚食が忌避されているのは、その民族のある時期に豚を食べて集団食中毒になったことがあるからだ」というような説明を「科学的」と表現することがあります。

 

しかしこのような説明を「科学的」と称することに問題があると思います。というのも、このような場合の「科学的」という言葉遣いは、通常「科学的」と表現する場合と異なる意味合いがあるからです。

それは、世界の様々なものについての誤解(今回の例では特定の民族における文化について)や科学そのものへの誤解が生じてしまう恐れがあります。

 

「科学的」とは、科学に関するものについて言われる言葉ですが、人が単に「科学」と言うとき、それは自然科学のことを指す場合が多いと思います。
何をもって科学とするか、あるいは自然科学に属すると言われるのか。大きく分けてそれは領域と方法の問題でしょう。
今回の例のような民族や文化についての学問は社会科学と呼ばれ、自然科学が扱う領域からは離れています。
また推論そのものについて言えば、何かしらの実験や統計を用いているわけではありません。
つまり領域の観点からも方法の観点からも自然科学に属するわけではありません。

 

このような説明が「科学的」と言われるのは、せいぜい既存の自然科学の知識に反していないというだけのことです。推論そのものは飛躍した議論であって「科学的」とは言えません。
確かにその民族に言い伝わっている伝説をそのまま鵜吞みにするよりかは、私たちが信じる自然科学の世界観から離れるところが少ないのはその通りです。一方で、「その民族のある時期の指導者が偏食家で豚肉が嫌いだったからだ」という推論も同様に科学的な世界観と矛盾するところがありません。

 

食中毒説も偏食家説も、どのくらい「科学的」かという点では違いがありませんが、どちらの説明がより面白いかと言えば、食中毒説でしょう。
偏食家説はつまるところ、そのような考え方を持った指導者がいたからだということで、あらゆる事例に適用できてしまう万能さがあります。
他方食中毒説は、特定の事例ごとにそれに適う説明を創り上げるもので、その事例についての新しい視点を与えて楽しませることができます。
食中毒説のようなユーモラスな説明は、人々の心を惹きつける力を持っているわけです。

 

ところで先ほど確認したように、領域や方法の観点から「科学的」というわけではありません。単に科学的な知識と矛盾しないという程度のものであって、今回のような「科学的な説明」を積極的に支持する根拠などありません
しかし一部の人は、「科学」という言葉の持つ権威から、それを正しいものと思い込んでしまうこともあるでしょう。

 

当然、このような意味での「科学的な説明」はいくつかある可能な説明のうちの一つに過ぎないもので鵜吞みしてはいけないと考えているかぎりでは、特定の民族の理解に関して無害でしょう。当然、「科学的」と言っても領域や方法の観点で真っ当な自然科学と似るところがないと知っているなら、科学あるいは自然科学について誤解することは少ないでしょう。

しかし、「科学的」という言葉につられて面白いだけの説明を真実であると考えるのは、単なる思い込みであって危険な考え方です。

いずれにしても僕が言いたいのは、人が「科学的」という言い方をするとき、その意味合いについて警戒しなければならないということです。