こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。
質問箱にコメントを下さった場合、その回答をこちらの記事で共有します。
「質問箱」はアカウント不要でコメントできるようです。
また、はてなブログの機能でのコメントもお待ちしております。
今のところ寄せられたコメントは0件です。是非どうぞコメントください。
マストドン:@FedericoFederici@mstdn.jp
こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。
質問箱にコメントを下さった場合、その回答をこちらの記事で共有します。
「質問箱」はアカウント不要でコメントできるようです。
また、はてなブログの機能でのコメントもお待ちしております。
今のところ寄せられたコメントは0件です。是非どうぞコメントください。
マストドン:@FedericoFederici@mstdn.jp
アニメ「天幕のジャードゥーガル」が最終回を迎えました。
感想については、今期のアニメでまとめて書くつもりなのでまた別の記事に譲ります。この記事では最終回におけるファーティマとオゴタイの星界問答について書きたいと考えています。
一端アニメ本編から離れてその評判に目を向けると、ファーティマの語る宇宙観は天動説だが、オゴタイのそれは地動説に近いというものが見受けられます。そうなのでしょうか? そもそもアニメで地球や太陽が問題になっていたでしょうか?
アニメでオゴタイがどのように語っていたのかというと、星々は北の空の動かない星を柱としてそこに繋がれた家畜なのだと言います。つまり天球上の星の見かけ上の運動を、実際の運動によって説明しているのです。
では地動説では星々の運動をどのように説明するのか。まず地動説では、空の星々は実際には運動していません。星々が運動しているかのように見えるのは、地球の自転と公転によるものです。
夜の始まりに東の空に見えた星々が夜の終わりに西の空に移動するのは、地球が自転によって向きを変えて地平線の内側に収まる宇宙の領域が変化するためです。
一年を通して夜に見える星々の布置が変化するのは、地球の公転によって地球と太陽の位置関係が変化して、夜の間に地平線の内側に収まる宇宙の領域が変化するためです。
オゴタイの語る宇宙観は地動説に近いのでしょうか。ファーティマの語るそれが天動説で、それとは異なるから地動説寄りなのだろうといったことでしょうか? よくわかりません。
あらためて、天動説は天の星々が運動すると考えるのに対して、地動説では天の星々の運動は見かけ上のことで実際に動いているのは地球であると考えます。星々が実際に動いていると考えるのは、ファーティマもオゴタイも同じです。天動説のように地球が宇宙の中心とは考えませんが、さりとて太陽が中心だとも考えていないことは同じです。中心はテングリにあります。
では何が違うのでしょうか。それは星々がアッラーに従うのか、テングリに従うのかということです。「太陽も月も星々もその御言葉のまま」とファーティマは言います。オゴタイは星々は天の家畜なのだと言います。
ここで星々とは人々の譬えです。人々はアッラーに従うのか、テングリに従うのか。世界を支配するのはアッラーかテングリか。ペルシャかモンゴルか。
科学談義からやおら政治談議へと話が飛んだのではありません。端から政治の話でその最後においてオゴタイがファーティマへ、シタラ即ちモンゴルを彷徨するペルシャの星へ、宣戦布告をしたのです。もっともファーティマの本当の名前がシタラだとはオゴタイは知らなかったでしょうから、星々の話が持ち出されたのはまったくの偶然でしょうが。
いずれにしてもファーティマとオゴタイの星界問答は天動説か地動説かという話ではなく、ファーティマがモンゴルでの運命を受け容れるのか否かという話です。
これ以上はアニメの感想になってしまいますから、今回はここで終わりにしたいと思います。
こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。
先日、春日部つくしと冥鳴ひまり(両名ともヴァーチャル・ユーチューバー)の結婚企画が発表され、取り下げられました。理由は単純には批判があったためですが、批判する声は多く、それらすべてを網羅して議論することは不可能なので、ここでは特にクィア・ベイティング批判に焦点を絞って議論したいと考えています。
まずクィア・ベイティングとは何か。Magazine for LGBTQ+Ally - PRIDE JAPANの説明によると、「当事者ではないのにレズビアン、ゲイ、バイセクシュアルなどの表現を商業的に利用し、性的指向の曖昧さをほのめかして世間の注目を集めたりお金儲けに結びつける手法のこと」とされます。また「作品の登場人物がクィアである可能性を繰り返しほのめかしているにもかかわらず、セクシュアリティの明示を避けている場合などにもクィアベイティングが指摘され」るともされます*1。
今しがた引用した説明には、2種類の異なる場合が含まれています。1.実際にはクィアではないのにクィアであるかのように装うこと。2.実際にクィアかどうかは明言せずにクィア的な表現を用いること。両者の間には様々な差異があるでしょうが、クィアネスの明言の有無が顕著な違いとして見いだされます。
今回の事例はどちらでしょう。(ヴァーチャルとはいえ)結婚である以上、「ほのめかす」にはとどまらず、クィアネスを明言しているとみてよさそうです。つまり今回の批判は「実際にはクィアではないのにクィアであるかのように装うこと」を批判しているわけです。
では、何を問題にしているのでしょうか。フィクショナルなキャラクターのクィアネスでしょうか、それともリアルな演者のクィアネスでしょうか。おそらく今回の議論はその両者を単純化して区別するのは不可能だと思います。それどころかその曖昧さが問題の核心なのでしょう。
ヴァーチャル結婚企画を批判する人々には、僕の勝手な推測を承知で言えば、「キャラクター同士の同性婚なんていくらでもできる。でも実際の演者同士は違うんでしょ」という想いがあったのでしょう。現実では同性婚ができないのだからそれを茶化すなという声もありました。
この背景にはヴァーチャル・ユーチューバーという独特な形式がります。そもそもヴァーチャル・ユーチューバーというのは、フィクショナルなキャラクターとリアルな演者の間の混同が起きやすく、ときにそれを(配信者自身も視聴者の側も)楽しむという文化が少なからずあります。
このヴァーチャルな両義性が、「演者たちはクィアなのか」という問いを喚起せずにはおかないわけです。ここで留意していただきたいのは、「混同」の責任を批判者たちへと負わせたいのではないということです。
では本当に「実際には演者はクィアでない」のでしょうか。その判断は誰が可能なのでしょうか。そしてどのような「釈明」がこの批判を免れることができるのでしょうか。
クィアにかかわらず一般に、「本物の○○」「本当に○○」をめぐる議論には常に排除の論理が潜んでいます。これは排除に繋がるかもしれないという予防的な不安ではなく、現にすでに行われている排除への危機感です。
真正性をめぐる議論は、あるいは「真面目な○○」や「本気の○○」などの誠実性をめぐる議論は、偽物や不真面目な他者の排除という結果を招いてしまいます。
クィアネスをめぐる議論に話を戻しましょう。先ほど引用したPRIDE JAPANの同じページにも「一方、クィアベイティング批判に晒された著名人が、自身の意志に反して性的指向のカミングアウトに追い込まれる事態を問題視する声も上がってい」るとの指摘もあります。
(半ば)強要されたカミングアウトは望ましくありません。また、依然としてそのカミングアウトは本当なのかという問いがつきまとい、終わりのない不毛な議論が続くだけです。
改めて問いますが、なぜ偽物のクィアでは問題なのでしょうか? 不真面目なクィアの何が悪いのでしょうか? クィア・ベイティング批判は、クィアネスの真正性・誠実性を問うことで何をなすべきなのでしょうか?
ここで再び問題となってくるのは、ヴァーチャル・ユーチューバーの曖昧性です。この曖昧さがキャラクターのクィアネスに留まる問題かそれとも演者のクィアネスまで含む問題かと問いを困難にしています。
一方でその曖昧性はそのまま、フィクショナルな同性婚がリアルな同性婚を呼び起こすということ、フィクションが現実を「侵犯」するという可能性でもありましょう。
今回フィクションによる現実への侵犯は、フィクショナルな同性婚がリアルなクィアネスをめぐる議論を喚起するという形で表出しました。
僕が望むのは、その同じ侵犯の可能性がリアルな同性婚の実現に続く議論を喚起することです。つまりは現実のクィアを解放することです。
今回は特に、クィア・ベイティングにあたるかいなかというところに争点を置くべきではありません。問題は、「これはクィアを解放するのかクィアを抑圧するのか」というところにあります。
当然この結婚企画が即座に同性婚を制度化したり逆に同性婚の議論を無効化したりするということはないでしょう。それでも企画が人々のクィアについての思考を揺さぶることもあるでしょう。そしてその揺さぶりが解放的か抑圧的かは企画の後にわかることです。
覚めてもいないうちから「これは悪い夢だ」と決めつけて振り払おうとするのは、もうやめにしましょう。これは今回の事例のみならず、またLGBTQ+をめぐる議論にとどまらず、随所で散見されるものです。
残酷な現実を語るばかりで一切夢を見ないのでは仕方がありません。たしかにどこへ行っても何をしても地獄というのは、マイノリティが直面する現実として正しいのでしょう。しかし解放を目的とするからには、夢を見なければ始まらないのではないでしょうか。
寝言を寝て言おう。良い夢を見て実は正夢だったというつまらないオチを期待しよう。
マストドン:@FedericoFederici@mstdn.jp
こんばんは。フェデリコ・フェデリチです。
2026年の春アニメの感想を書いていきます。
順番はタイトルの50音順です。
「君の笑顔を取り戻したい」って言ってショートコントするアニメがあるかいな!
ストーリーだけで言えば、人と人が出会って、過去のトラウマを乗り越えていくという定番的なものなんだけど、そこで「笑い」が重要な作用を担っている。
ストーリーだけでいうと重苦しいような内容なんだけど「オチ」がついたり、「笑い」がキャラクターの関係や生き方を変えたりする。
ともすればストーリーと「笑い」という要素がちぐはぐになってスベリってもおかしくないところを、このアニメでは上手くいっている。それがすごい。
これは本筋から外れるんだけど、「オタク」を自称するキャラクターや人間が苦手なので、苦手だな~と思いながら見ていた。
異質な客人との共存をするアニメ。アニメならありかとギリギリ思わせるマスコットキャラクターみたいな生き物が主役で、アニメを通してずっとこのクジマという強烈なキャラクターに困惑させられるアニメだった(周りのキャラクターたちも困惑していて、つまりキャラクターたちと一体になれるアニメだ)。
クジマは人間でなく鳥なのだけど、「飼う」のではなく「居候」として鴻田家にお世話になっているというスタンスなのが良い。クジマは客人なのだ。
そして兄の英が良いキャラクターだった。クジマがはしゃいでいるだけのアニメでもいいちゃいいんですが、兄の英がいるおかげで起伏のあるストーリーになっていました。あと兄の英が第二外国語でロシア語を履修していたら面白いなと思ったら本当にそうで、ちょっと感動さえした。
それと音楽も良かった。奇妙奇天烈なアニメになりそうなところを踏みとどまらせて、物語に目を向けさせてくれていたのは音楽だと思う。
前半ずっと春の代行者誘拐事件のトラウマを三者の視点で繰り返してて凄かった。誰にとっても悲劇的な事件であっただけに、視点によって見え方が違うということもあまりなく、キャラクターの回想に付き合わされているという感じがした。
前半の印象が強かったせいか、後半で秋の代行者が誘拐されたときも「また誘拐?」と思ったし、誘拐犯が判明したときも「また同じ組織?」と思った。
代行者の誘拐をする組織のリーダーは、この作品における「敵」なんですけど、「敵」の役を果たしているのかちょっと分からなかった。「敵」というのは、単にバトルシーンを作るためのものではなくて、ストーリーを作る作品における核であるべきで、そうあってほしい。
このアニメでは、代行者と護衛官それぞれに立場や生い立ちから来る生きづらさというのがあって、「敵」である組織のリーダーにもトラウマがある。みんな何かを克服しようと必死にもがきながら生きている。
そして、それらがぶつかり合ってどうなったか。語り合う場面があったはずなのに言葉を飲み込んでどうにもならなかった。結果ただ勝ち負けが決着しただけになった。それはなんだか寂しい。(原作や続編では何かあるのかもしれないが、このアニメに限ってはそうだった)
分かり合えなさに歯嚙みして、分かり合えることに涙する、そんなアニメだった。
非凡に見せたがっている凡人たちの話。そしてアニメも非凡に見せたがっている凡作。
例えば、脚本なんかも手堅くて、最初にキャラクターたちの魅力や活躍をアピールして、次に各キャラクターの掘り下げ、トラブルが起きたり対決したりして、最後はそれぞれの新しい生き方を見つける、という構成。悪くはないんですがありきたりではある。
表現の面でも、部分的に実写映像を取り入れるとか何かの引用を散りばめるとかも、正直「やってるだけ」感があった。というか実写映像に関しては、「勇者の肋骨で」があまりに無法者すぎたので「ニディガ」が相対的に微妙になってしまったのは仕方なくもある。
「勇者の肋骨で」の多種多様な映像は、作品の内容に合わせた演出としてマッチしていたんだけど、「ニディガ」は奇抜に見せるための奇抜でしかなかった。
最後のマルチエンディングも、逃げの姿勢を取っただけにしか見えなかった。明るい未来なんて白々しいし悲惨な最期も程度の低い露悪だ。その両方を避けた結果、一つのエンディングを提示できなかったのだ(ある意味正直といえる)。
そして、キャラクター、作品がともに凡庸というのは、キャラクターと作品が一致しているというより、実際に一生懸命に変だと思われようとしたものの既存の枠組みから抜けられなかったという、お粗末なアニメだと思う。
すでに言い尽くされた「インターネットが辛い」を改めて言うことにどんな意義が見出されるのだろうかという期待はものの見事に打ち砕かれた。
このアニメは異様だね。このような作品がアニメとして描かれたことに感動すらしている。
このアニメの良さは、なんというか、正直さにあると思う。例えば、伊吹桂子と岡部絵美の名前で代表されるような、いじめの加害者と被害者、その共犯や傍観者の問題が扱われるんだけど、そこで加害者を悪魔化することもなければ、無罪にもしないという、微妙な立場が保たれていた。
単なるエンタメとして面白くしたいなら、もっと作品の立場をはっきりとさせてそれに合わせたストーリーやシナリオにすれば良いんだけど、それをしない。エンタメ重視に傾かずテーマに真面目に描こうとする態度を僕は正直と言いたい。
それでいて 闇の部分だけでなく、光の部分も描いていた。これもやはり、芸能の世界を正直に描こうという態度なんだと思う。
というかこのアニメは基本的に明るい。油彩画的な重厚さではなく水彩画的な透明感だ。忘れてはならないのは、なによりまず淡島歌劇は人に感動を与えるものだということ。その世界に入ってくる人も夢や希望を抱いてやってくるということ。それが第一。
時として裏側には人目を憚るような何かがある。もちろんあるんだけど、このアニメはそれに立ち向かった。田畑若菜が書いたのは暴露本ではなく、知られざるものを知ってもらって考えてもらって良い方向に変わっていくための希望の書だった。
本がどう受け止められるのかなんてわからない。結果良くなるのかもしれないし、悪くなるのかもしれない。作中でも何かを壊してしまうのではないかと危惧していた。それでも本を出した。希望を選んだのだ。このアニメは、希望のアニメなのだ。
このアニメも異様じゃな! 毎話作画が変わるどころか、AパートとBパートで外注しているアニメ制作グループが違うという実験というか暴挙というか。でもそれは単に気を衒ってのことではなく、このアニメのコンセプトを最大限に表現した、あるいは活かした結果のこと。
主人公が好き勝手するせいで転生先がめちゃくちゃになるという話なのだから、アニメのほうもあまりお行儀良くしちゃいられない。転生するごとに、クレイアニメや紙芝居、実写映像もあるというお祭り感。
それでいて世界全体、マルチバースを救うというストーリーがあるのだから、ただものじゃない。「霧尾ファンクラブ」でもそうだったけど、「笑い」が目の前の人を、ときに世界を救うということもあるんだという笑いの可能性を信じた作品だ。
個人的に今期で一番面白かったアニメ。
ストーリーもキャラクターも良かったんですが、やっぱりこのアニメの魅力は、雰囲気というかノリですね。
背景設定は言ってしまえば、ヤク中とヤク中予備軍の連中が権力抗争を繰り返している世界で、今期のアニメの中で最も悲惨。魔王vs.勇者と言いつつ、魔王の眷属から勇者になったり、勇者から魔王や眷属になったりが当たり前の世界。何なら主人公がそうですしね。
この最悪な世界と美少女萌えアニメとが上手く両立しているというのがすごい。絵柄や演出の為せる業。またこの対立は、作中では死神ヤシロと城ヶ峰亜希のケンカという形で表現されていた。漠然と感じられる違和感よりも、対象化されて問題にされたほうが受け入れられやすいのでしょうね。
そしてヤシロと城ヶ峰の対立は、言わば現実主義と理想主義の対立であり、このアニメの裏の、しかしメインのテーマである。正義の反対はもう別の正義どころか、悪の反対はもう別の悪というような世界で、勇者とは何かと問う。
一話一話が面白くて、全体でも良いストーリーだった作品でした。
あと嵐の柩卿。かつて悪しき野望を抱いた女にしか出せない哀愁!
ハッキリ言ってクソアニメ。ストーリー? 多分いいんじゃない? 多分というのは、最終回が中途半端なところで終わったのみならず、全編通して描写とかエピソードが滅茶苦茶でストーリーどころではなかったから。
原作を知らないから勝手なことしか言えないけど、例えば「自分だけの才能」を切望していたはずの主人公が、他人の才能を盗む才能に目覚めるという設定、かなり秀逸なものだと思っている。つまり、主人公が求めたものと実際に得たものの間に乖離があるわけです。その点について充分に扱えていたとは思えない。
加えて、才能を手に入れることで歴史上の人物に近づけば近づくほど、元の自分を失ってしまうという葛藤もあった。これは作品の根幹でしょうに。チラッと言及されただけで、消化不良の感が否めない。
ストーリーを軽視した構成は、結果的にバトルシーンもポッと出のキャラ同士の技のぶつけ合いになってしまってつまらなかった。
最終回まで見れば駆け足だった理由に納得できるのではないかという期待も裏切られ、最悪でした。もっと良いアニメ化の仕方があったはずです。アニメーション自体は、作品のダークな部分、ダークでない部分両方の魅力を引き出せていただけに残念でなりません。
以上です。
何かありましたら、コメントでも以下のリンクからでも。
こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。
2026年冬アニメの感想を書いていこうと思います。
平凡な子爵令嬢コンスタンス・グレイルが、十年前に処刑された稀代の悪女スカーレット・カスティエルに取り憑かれて、その復讐に協力する物語。
スカーレット・カスティエルの処刑という事件があって、そこには謎がある。実に惹きつける始め方です。
また物語の終盤には、「スカーレット・カスティエルは処刑された。その真相は?」という知ることに関する問いから、「スカーレット・カスティエルは処刑された。ではコンスタンス・グレイルは?」というアクチュアルな出来事に関する問いへと変化するのも、とても良いものでした。
事件の真相が明るみになった。というだけでは終わり方として面白くないですからね。戦争が始まろうとしている。処刑がなされようとしている。どうなる。どうなった。という方がずっと面白い。
さらに、単に陰謀があって、物語が進んでというのでもなく、コンスタンス・グレイルとスカーレット・カスティエルが互いに影響しあっているのも面白い。
コニーは当初、何事にも怯える少女でしたが、人を助けるために率先して動いて他人を巻き込んでいくようになりました。スカーレットもただ自分の復讐のためにではなく、コニーを助けるために奮闘しました。つまりはバディ物なのです。
正直、バディ物ってあまり好き好んでみてきたわけでないのですが、その面白さがわかったような気がします。
今回で十分完結した内容のものでしたが、続編もあるようなので、二期に期待したいです。
何なんだこの作品は。
仮面ライダーが大好きな主人公、東島丹三郎が、いい加減仮面ライダーへの憧れを捨てようとしていたところに、ショッカーの格好をした強盗が現れる。それを見て仮面ライダーのお面をつけて戦うところから話が始まる。
その後本物のショッカーや怪人も出てくるのだが、主人公たちはあくまで「強いだけのお面をつけた変人」。
この作品は本当にすごくて、たとえば頬を赤らめる演出だとか、サブタイトルになっているセリフが字幕で画面を埋めるのとか、愛の力でショッカーの洗脳から覚めるだとか、めちゃくちゃダサいんですけど、そういう冷笑をガン無視して自分の好きなものを貫くというところにこの作品の本質があるのでしょう。
いわゆるファンだとかオタクだとか呼ばれる人の生き方を描いた作品ですが、そこには生半可さが一切ない。仮面ライダーになるために過酷な修業・訓練をするというフィジカル面もそうだし、事あるごとに仮面ライダーの「あのシーン」を引用して語り合う、なんてこともする。
そしてこれほどにまで仮面ライダーへの熱意で溢れる作品であるにもかかわらず、まったく仮面ライダーファンではない僕も楽しんで観ることができたということが、この作品の良さなのでしょう。
透明人間の透乃眼あきらと目の見えない夜香しずかの恋愛を描いた話。出会ってから恋をして同棲するまでが描かれる。
あまり恋愛が主軸の作品は見ないのですが、面白く見ていました。探偵事務所が舞台ということもあり、話の拡がりが大きいのもありましたが、人間を含む様々な種族が登場して、独特な面白さのある作品でした。
たとえば毛並みに柄のある獣人が、服の着こなしで悩むというのは、見たことがありません。そしてその服の悩み、毛並みの悩みが目の見えない夜香しずかにとっては考えられないことで、まったく響かないというのも、この作品の面白いところです。
そのおかげで解決するわけではないし、なんなら別の仕方で解決を見るのですが、自分の悩みとは無関係なところにいる誰かが傍にいるということは、それだけで意義深いことです。
この異なるもの同士の出会いというのは、この作品の恋愛という部分でも見られることです。透明人間である透乃眼あきらにとって、人から見られないということは恐怖でした。見えないということで、忘れられ、疑われ、怖がられる。
そんな彼にとって夜香しずかは、見る以外の仕方で、理解してくれて、信頼してくれて、傍にいてくれる存在なわけです。
ルーツの異なる者同士で、理解できないことがあって苦しんだり、逆に悩みが相対化されたりというのは普遍的なテーマです。そしてこのようなファンタジーでそのような部分を扱った作品は珍しくとても新鮮な感じで見ていました。
勇者という罪人が、世界の脅威魔王と戦う話。勇者ザイロ・フォルバーツが対魔王兵器である女神テオリッタと出会いその騎士になってから、パトーシェ・キヴィアがおじ殺しの罪で勇者刑に処されるまでが一期の内容。
古典的なファンタジーの用語が使われますが、そのじつ勇者は徴兵された罪人で女神は兵器です。それらがその名であるのは、まさに魔王である魔王によってでしょう。しかし魔王は魔王で、物語の最後に現れる単一のものではありません。
このように勇者、魔王という単語を使いながらも古典的なファンタジーの用法と異なっている、特に勇者は尊敬されず、魔王は複数存在するというのは、原作者が同じである「勇者のクズ」でも当てはまります(こちらはまだ続くようなので今回は取り上げませんが)。
この作品の主軸は、勇者vs.魔王ではなく、勇者と魔王を取り巻く人物たちの間での政治的駆け引きです。特に共生派と呼ばれる、魔王と人類の「共生」を掲げる一派が存在します。といっても魔王に取り入って人類を支配しようという企みのことなのですが。
自分と自分の近しい人を守ろうとする現実的な共生派と自己犠牲をも厭わず世界を救おうとする理想主義の間の対立。これが本作のテーマでしょう。
第一話を見たときはあまりにも詰め込みすぎていて、うんざりしたものですが、通して見ると案外良いと思えた作品でした。
タイトル通りの作品ですね。追放されたあと黒竜を単独で討伐するなどの活躍をして、別のギルドに迎え入れられ、そこでも活躍をし、もう一度黒竜を討伐します。
作品を見ていない方には驚かれるかもしれませんが、作中で二度(言及されているだけのものを含めれば三度)黒竜を討伐します。
自分の好みから外れるだろうと予想はしていましたが、知るために見たアニメです。まあ予想通りでしたね。
でもこのようなアニメを見てこそ、自分にとって好きなアニメとは何か、良いアニメとは何かという問題を考えることができるようになるのですよね。
このアニメは僕にとって何が問題であったか。それは「敵」の存在が足らなかったということでしょう。ここで言う「敵」とは「悪」とは異なります。主人公が「悪」ならば「敵」は「善」ということもありうるでしょう。そもそも「善」対「悪」という構図でないかもしれません。
ときに単なる競争相手ということもあれば、社会に蔓延る差別や偏見ということもある。自分自身の弱さという観念的なものでもありうる。
それらはつまり、物語全体を通して主人公が取り組まなければならない課題のことです。その課題を通して、主人公や周りの人物、世界はどのように変容していくのか。それが物語を作るのです。
もちろん、その課題が明確でない場合もあれば存在しない場合もあるでしょう。しかしそれは日常を描いたような作品に限られます。
この作品には日常も敵もありません。敵という概念の欠落は、黒竜を何度も討伐したことに表れています。
黒竜の討伐について確認しておきましょう。まず主人公は、追い出される前の勇者パーティーとともに黒竜を討伐しています。これが言及されるだけで描写のないものです。
次に訳あって唐突に出現した黒竜を単独で討伐します。主人公が勇者パーティーから追い出された後のことです。これは作中で意味があります。勇者パーティーの強さの核心は役立たずと思われていた主人公にある、ということを示すことです。
そして、主人公が勇者パーティーとは別のギルドに迎え入れられた後にもう一度討伐します。これには何か意味があったのでしょうか。ギルドの仲間たちと協力して討伐していたのなら、多少なりとも意味があったでしょう。しかしアニメの描写の限りでは、そこが強調されていたように思えません。
それどころか、同時に別のところでピンチになっていた主人公の教え子を守るために、黒竜をさっさと片付けて助けに駆けつけるのです。なるほど主人公はピンチを切り抜けました。しかしだから何だというのでしょう。
この作品に限った話ではありませんが、「階層」や「フロアボス」という概念は基本的に、登場人物の「格」を示すだけのもので敵ではありません。主人公が周りの人物から称賛されるためのもの、トロフィーに過ぎないのです。
強い敵を倒して、仲間や教え子を守った。主人公はすごい。それだけのことです。
最終回でようやく、陰謀を企む悪の組織の存在が仄めかされましたが、大部分では特に敵が現れることもないぬるりとしたものでした。
生涯をかけて追い求める目標もなければ愛すべき日常もない。それでも次々と対処しなければならない何かが差し迫ってくる。これはこれで現代のリアリティーなのかもしれません。適当なことを言いたくなったところでやめておきましょう。
それではまた。
マストドン:https://mstdn.jp/@FedericoFederici
質問箱:https://peing.net/ja/fdrc
こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。
第51回衆議院議員総選挙が終わりました。
今回の選挙結果を受けて、それぞれの立場、個人に思うところがあるでしょう。特にリベラルあるいは左派と自称するあるいは他称される人たちは、今回の敗因分析や以降の課題について考えているはずです。
僕自身はどこかの党や立場に属するような活動をしていたわけではないので、「敗因分析」という言い方こそしませんが、なぜこのような選挙結果になったのかについて考えたことを書いておきたいと思います。
今回の選挙についての報道や意見を見て目に付いたのは、「イメージ」という言葉です。例えば、高市早苗についてはポジティブなイメージがあるとされ、高市批判を繰り返す野党にはネガティブなイメージがあるとされます。
ここで「イメージ」とは、何かを想像するときに心の中に現れる視覚的なものというより、それに伴う「評価」とでも言うべきものを含んだものです。つまり有権者は、高市早苗について良い評価を与え、野党には悪い評価を与えたのです。
左派、リベラルの期待するはずのところ、あるいは僕の期待するところでは、有権者はイメージではなく政策-言葉による投票をするべきです。日本という国、日本に住む人々の暮らしを維持するにせよ改革するにせよ、その政策は言葉によって表現され、有権者はその言葉を理解して判断して投票先を決定する。それが選挙であるはずでした。
ところが今回の選挙はそうではありませんでした。高市早苗が自ら解散しておきながら、涙を流して被害者のような振る舞いをする。このような歪んだ論理-言葉を批判する野党は、悪口を言うというイメージがつき、政策-言葉を何も語らない高市早苗には明るいイメージがつく。そしてイメージの良し悪しがそのまま選挙結果と相成った。言葉ではなくイメージによる選挙でした。
ではそのようなイメージを作るものは何でしょうか? それもやはり言葉でしょう。それはつまり、物語としての言葉です。
例えば、今回自民党に投票した有権者はこのようだったと考えてみましょう。YoutubeやTiktokで動画を見る。するとそこでは、高市早苗に台湾有事について質問をする岡田という男がいる。彼は中国と繋がっており、高市早苗への質問は、中国が日本に侵略するための口実作りだった。他にも高市早苗に批判する人がいて云々。そのような動画を見て物語-言葉が出来上がる。高市早苗さんが悪意を持った人たちに追い詰められている。可哀想だ。助けてあげなきゃ。そうして自民党に投票する。
これもまた一つの物語-言葉です。自民党に投票した人のうち、これに当てはまる人はそれほど多くないかもしれません。しかし今の物語によって、自民党に投票した人のイメージが一つ出来上がったはずです。論理-言葉を大切にする人には理解できないかもしれませんが、イメージが出来上がってしまうと、人はそれを信じてしまう傾向があります。少なくともイメージがなく、論理-言葉による説明だけがある場合よりも遥かに信じやすいでしょう。
政策-言葉は、論理-言葉によるものです。政策が論理によっているとは、論理に基づいているということではありません。立場や人によっては、不可能と思える政策もあろうかと思いますが、そもそも不可能がどうか考えることができるのは、論理の領域に属しているからです。つまり僕がここで言いたいのは、政策が論理に基づいて立案されているということではなく、政策を問題にするとは、論理において問題にするということなのだというものです。
一方で、イメージについて考えるとは、論理において考えるということではありません。イメージが物語-言葉によって形成されるとしても、イメージそれ自身は論理の領域に属していないのです。これもまた論理を大切にする人には理解できないことでしょうが、論理によるのではイメージは覆らないのです。
では、左派、リベラルには何が必要なのでしょうか。YoutubeやTiktokで政治系動画による収益を停止してはどうかという案があります。もちろんそれも重要でしょう。しかし短期的に実現可能なものではありませんし、長期的には新しいプラットフォームの登場ごとにイタチごっこに付き合わされでしょう。
であるならば、物語-言葉をやるべきでしょう。僕らは陰謀論の時代を生きています。だからといって左派やリベラルにとって都合のいいデマを言いふらそうということではありません。あくまで事実に基づきながらも物語を作る。人々に物語を提示してそこへの「参加」を呼びかける。
僕が今回の選挙で思い出していたのは、兵庫県知事選です。事実はどうであれ、斎藤知事が被害者であるという物語に参加した有権者が彼を助けるための投票行動をしたことが結果に繋がった選挙でした。物語はイメージを形成します。そして物語に触れた人はそれに参加したくなるものです。どのようにして、物語が参加を促すのか。それは分かりませんが、物語に参加する人は物語が形成するイメージによってその振る舞いがあらかじめ決定されていることは確かです。
僕はこの文章の中で○○-言葉という表現を繰り返してきました。それは、政策も論理も物語も言葉によって表現されるということを言いたかったからです。そしてイメージは、言葉によって表現されるものではないことを強調したかったからです。
物語はイメージを作り出す。イメージは言葉にとって余分なものでしょう。自らの支配下に治めることのできない、自らの産物。
これまで言葉を重視する人々はイメージを嫌い、イメージを与えない論理に終始してきました。しかし、政治における論理一辺倒の時代は終わりました。すでにイメージを産出する物語の時代です。
○○-言葉という書き方は、論理と物語が区別されながらも、どちらも言葉によって表現されたものであるという点で似ていることを言いたかったのです。
論理から物語への移行は容易くはないでしょう。しかし不可能なことでもないはずです。
人々の政治的な判断の基盤は、政策からイメージへと重心が移動しつつあります。
イメージは論理の外部にあり、論理による政治的な活動には限界が到来しつつあります。
それは言葉による活動が無意味になったのではなく、活動また論理から物語へとその重心を移動させることを期待されるようになったのです。
こんばんは、フェデリコ・フェデリチです。
さて2026年冬アニメ『エリスの聖杯』がスタートしました。
平凡な少女コンスタンス・グレイルが、地獄から舞い戻った稀代の悪女スカーレット・カスティエルに復讐の協力をするというストーリーのこのアニメですが、


どうやら紳士の方々からも人気なアニメのようです。
ところでこのアニメは、登場人物の数が多く、またミステリーの側面も持ち合わせているため、人物を記憶しておくことが大切になります。
この記事では、記憶力に問題のある方々のために登場人物を記録しておこうと思います。
ストーリー解説を行うわけではありませんが、ネタバレ配慮等はしておりませんので、アニメ視聴後の確認のためにご利用ください。
加えて原作については未読ですので間違い等があるかもしれませんことをご承知おきください。

コンスタンス・グレイル(愛称:コニー)

スカーレット・カスティエル(10年前に処刑され死亡)

エセル(グレイルの父)

ミレーヌ・リース(コニーの友人)

ケイト・ロレーヌ(コニーの友人)

ニール・ブロンソン(ブロンソン商会の御曹子)

パメラ・フランシス(ニールの恋人)

ブレンダ(パメラの友人)

時計回りに、ペラム士爵、名前不明、ウェイン・ヘイスティング、スタン子爵夫人、ブロア男爵令嬢

ドミニク・ハームズワース子爵(成金豚)

エマニュエル伯爵夫人(盗人が死ぬまで踊る地方の人)

セシリア子爵令嬢とエンリケ王太子


コニーはオーラミュンデ公爵家の使いレティとモーリス孤児院のシスターになりすました

リリィ・オーラミュンデ(カスティエルの知人。2年前に死亡)

モーリス孤児院のシスター

ランドルフ・アルスター(リリィの夫、死神閣下)

モーリス孤児院の孤児たち、左の少年がジョージ、右の少年がトニー


エミリア・ゴードウィン(生前のカスティエルを知る)

アイシャ・ハクスリー(カスティエルからはスペンサーと呼ばれていた)


アイシャ・ハクスリーの「良い人」

テレサ・ジニングス

マーゴット・テューダー

キリキキリククと呟く女性


セシリアとエンリケ本人が登場。

ジョン・ドゥ伯爵(名無し、秘密の夜会の隠語)

スカーレット・カスティエルの腹違いの兄

コーネリア(かつてのファリス帝国の皇帝の子息の娘)

アリエノール(スカーレットの母。コーネリアの血を引くという話がある)

デボラ・ダルキアン(この度の夜会の主催)

ゲオルグ・ガイナ(憲兵。アルスター卿の同僚)

カイル(同上)

ダェグ・ガルス(「例の組織」。人身売買などの悪事を働く)

エルンスト・アデルバイド(国王。生前のスカーレットを知る)


右からジャニーン、エステル、デボラ・ダルキアン(第三話登場)、カロリーナ

左:マクレーン公爵(エステルの夫)

アビゲイル・オブライエン(四大貴族の一人。口なし貴婦人の茶会にはスザンナ・ネビルの代理で出席)

アメリア・ホッブス(メイフラワー社の記者)

オルダス・クレイトン(同上)

キンバリー・スミス(すみれの会婦人部の人)


ケンダル・レヴァイン(ファリスの上級外交官)

ユリシーズ・ファリス(ファリスの第七殿下。目下行方不明)

バド(ソルディタ共和国の商人)

ジョアン殿下(エンリケの弟)と夫人と息子、娘

ウォルター・ロビンソン商会の人間(ウォルター・ロビンソンその人?)

謎の人物が馭者に入れ替わって登場


アビゲイル・オブライエンは高級娼館フォールクヴァングのオーナーでありメイフラワー社の出資者の一人。オルダス・クレイトンはオブライエンの下で動いており、ルディと呼ばれている。

ミリアム(オブライエンの関係者)

レベッカ(同上)

キアラ・クラフトン(エミリア・ゴードウィンの夜会やジョン・ドゥ伯爵の夜会に登場)

ユリシーズ・ファリス(依然囚われの身)

サルバドル(ダェグ・ガルスのメンバー、バドと名乗っていた)

ショシャンナ(ダェグ・ガルスのメンバー)

ホセ(同上)


リュゼ子爵家(嫡子は幼くして亡くなっており、セシリアは妾の娘であるとか)

孤児院でのセシリア(孤児院時代の恋人シシーに会っているとか)

テレサ・ジニングス(薬物中毒で死亡)

ルチア・オブライエン(アビゲイルの姪。霊感がありスカーレットが視える)

ケビン・ジニングス(亡くなったテレサの夫。記者アメリアの情報源だったが現在は廃人に)

アドルファス・カスティエル(スカーレットの父だろう)

シャロン(アイシャの友人。彼女に「気付け薬」を教えた)

ルーファス・メイ(財務監督官。デボラ・ダルキアンと繋がっている)


ハクスリー邸の使用人たち

レディー・オードリー(高級娼館フォールクヴァングを取り仕切る。先代のオブライエンからの繋がり)

ローラ(フォールクヴァングで働く、ミリアムやレベッカの同僚)

カルヴァン・キャンベル(アビゲイルの裁判を担当する判事)


↑サンと↓エウラリア

リリィ、エンリケ、スカーレットは少年時代を同じくした


家庭教師に召使い

聖ニコラス病院(セシリアの慈善団体が運営。前の運営者はキャンベル伯爵)

サイモン・ダルキアン(デボラの夫。セシリアを病院へ仲介させた)

デュラン・ベレスフォード(憲兵局の総司令官)

二人はファリスのアレクサンドラ王女の使い


現国王エルンストと、スカーレットの父アドルファスと、ランドルフの上官デュランは旧知の仲

アリエノール・シボラ(スカーレットの母)

シモン・アルスター(ランドルフの父。亡くなった)

ロドリック(ファリス第二殿下。引きこもり状態)

アレクサンドラ(ファリス第三殿下。塔に幽閉されており火刑の危機)

テオフィルス(ファリス第四殿下。戴冠間近)

エドモンド・パーク(ミレーヌ(画像左)の情報によれば、他殺体で発見された会計事務所の所長。聖ニコラス病院を受け持っていた)

ヤギのくるぶし亭の人間。地下の賭博場への案内もしている

パメラに囁く老人

オブライエン邸の使用人

ジョアン殿下(名前は第四話であがっていた)

ルチアとユリシーズの見張り

テオフィルス(第九話登場)


ファリスの使用人(首元にはダェグ・ガルスの刻印)

セシリアの幼い頃とその親友

セス

シシィ

塔に囚われていることになっているアレクサンドラの身代わり
復習用の記事なので、最終話となる第十二話分の更新はありません。
別の記事として2026年冬アニメの感想を書くつもりですので、そちらも読んでいただきたいです。
それでは。
マストドン:https://mstdn.jp/@FedericoFederici